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水上夏樹 あるいは僕はそのとき本当に水上夏樹を時速90キ口で撥ね飛ばしていて、制暦2002年の夏、僕を魔法の国へと導いた女は幽霊か何かだったのかもしれない。いまでもそう思うときがある。 「私は生きてる」 けれども助手席に座った水上夏樹は、手のひらをそっと僕の膝の上に置いてみせたのだった。 「こんなにリアルに、生きてる」 彼女の指はほっそりと長く、蝋のように白かった。手の甲には青い静脈がうっすらと浮かび上がっていた。爪の先まで完壁に手入れが行き届いていた。なんだかまるで人間の手には見えなかった。手が宿命的に抱える従属性や機能性から独立して、もはや手であることだけで完結した存在であるかのように思えた。世界美手コンテストというものがあるとしたら、それは間違いなくいなく上位にランキングされるべき手だった。 「きれいな手だ」 僕は言った。 「きれいな手だ」 彼女はくリかえした。 「手を褒められるのって嫌いじゃないわ。ありがとう」 「どういたしまして」 「あなたの膝も悪くないわ」 「膝」 僕は言った。 「世界美膝コンテストに出れば間達いなくいなく上位にランキングされるべき、膝」 「おかしなひと」 彼女は小さく笑った。 道は夜の中に完全に沈みこみ、へッドライトだけが頼りなく世界を切り裂いていた(言うまでもなく、ロスト・ハイウエイには街灯なんてやわなものはないのだ)。一瞬、リアウインドウになにかの影がよぎった。そして──それまで人を撥ねたことはなかったけれど、人を撥ねるとおそらくこういうことになるだろう、という衝撃が僕と僕の車を揺るがした。 急ブレーキ。ゴムが焦げる匂い。恐怖。焦燥。後悔。 車が止まってからも僕は外に出ることができなかった。シートに頭をもたれ、無意味な深呼吸を何回も繰り返した。 胃は喉までせりあがり、心臓はチャーリー・ワッツのドラムソロみたいなありさまだった。だから 「──乗せてくれるの?」 という声をドア越しに聞いたときは心底篤いたし、実際、座席から飛び上がりもした。 開け放たれたサイドウインドウの向こうから、女の顔がのぞいていた。 短く切った黒い髪が、描みたいな目にくるくるとかぶさっていた。黒目がちで、その黒は夜の闇よりもなお深かった。 それが水上夏樹だった。 水上夏樹がどうして夜中のハイウエイを一人で歩いていたのか──僕が撥ねたものの正体と同じく、それはいまだに深い秘密の影のなかにある。彼女はただ 「散歩」 とだけ言い、それ以上なにも語ろうとしなかった。若い女の子が深夜のハイウエイを散歩するなんて聞いたことが無かったけれど、僕はあえてそれ以上詮索しようとは思わなかった。彼女は僕にとって他人で、僕は彼女にとって他人だった。 「あなた、神父さん?」 ラジオのスイッチを切って、水上夏樹が唐突に言った。 「神父?」 僕は言った。 「その服。神父服でしょう?」 「ああ、そうだ。でも僕は神父じゃない。セールスマンだ」 「聖書でも売ってるの?」 「いや」 「じゃあ十字架?」 「十字架も銀の弾丸も免罪符も扱っていない。水を売ってるんだ」 「水」 「一リットル百円で仕入れて、ひと瓶三万円で売る」 「それって完壁な詐欺じゃない?」 「どうだろう。信じられないかもしれないけれどこの水で救われている人もいるんだ。わざわざ東京からこんな辺鄙なところまで出張もする。誠意を持って相手の話を聞く。クーラーが壊れる。お土産の草餅は買えない。そういった点を考慮に入れると完壁な詐欺というのはシビアな評価かもしれない」 「限リなく完壁に近い詐欺」 「それが妥当な評価だろうね」 「インチキな水を売ってる人の車に乗るのって初めてだわ」 「僕も幽霊を乗せるのは初めてだ」 ふふん、と彼女は小さく笑った。沈黙が満ちた。しばらく彼女は窓の外をじっと見詰めていたが、やがて、ぽつりと 「初めてセックスした相手は聖書の訪問販売の男だった」 と言った。闇を見つめたまま、彼女は続けた。 「小さいとき、留守番をしていたらその男がやってきたの。『ご両親はいらっしゃいますか?』『いません』『実はありがたい言葉がたくさん書かれている本を配っているんです。お嬢さん、本はお好きですか?』『好きよ』『それじゃあ、少し話を聞いてくれるかな?』『少しならいいわ』。暑い夏の日だった。そして私たちはひとつになった──。どう、面白いと思わない?」 「それって本当の話なのかい?」 「まさか」 水上夏樹はけらけらと笑った。それから突然 「──世界の果て」 と言った。 「ねえ、ここってまるで世界の果てみたいだと思わない?」 「世界の果てなんて、ない」 僕は言った。 「あるとしたら、それは僕たち自身だ。僕たち自身が定点のない世界の果てだ」 気がつくと、水上夏樹は僕の顔をじっと見つめていた。 「連れて行ってあげる」 彼女は言った。 「連れて行ってあげる。世界の果てに」 と水上夏樹の手が車内の闇のなかを伸び──それはそんなときまで美しく、完壁な手だった──ハンドルを握り…… 次の瞬間、世界が回転した。 車は完全に制御を失っていた。僕と、僕の車と、水上夏樹は、いかれた駒のようなダンスをロストハイウエイで踊り、路肩に乗り上げ、そしてアスファルトの上を数回転して無様なフィニッシュを決めた。 そして目を覚ましたとき、僕は『赤い部屋』にひとり佇んでいたのだった。 |